ヒューマンマネージメントへの「違和感」について

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20061206/256081/

すでに「これはひどい」タグがついていたりするが、ちょっと待って欲しい。この記事(そして同じ筆者による別の「ヒューマン・マネージメント」系の記事)にこれだけ否定的な反応がついたことを、自分なりに分析してみたい。「これはねえだろ」という気分と「あ、面白いかも」という気分が自分のなかにも混在しており、整理が必要だと思う。
(なんて「反省」したり「分析」したりしている時点で営業の人に対する負け確定、のような気もするが(笑)、それはおいといて)

ある競争に別のルールを持ち込んでいる「ズル」感

技術者は、自分の技術的な能力が評価されることを好む。蓄えた知識や、経験から得られた判断力を、他人のために供用することで尊敬を集める存在である。より多く、より的確に他人の(技術的な)問題を解決した奴が、より大きな尊敬を得ることができる。すくなくとも理想としてはそうだ。そしてその尊敬から、他人に対する影響力を持つことも可能になるだろう。

そのために彼らは、膨大なマニュアルを読み、新しいテクニックを試し、同僚と議論し、秋葉で同人誌を買うのである。(まあ、買わなくてもいいが。) 競争はそれなりに熾烈だ。馬鹿なことばかり言っているエンジニアは、誰も話を聞いてもらえなくなる。シニアだって新しいことを吸収しなくては、同じ運命をたどることになる。

ITProの筆者が述べている方法は、これとはまったく別の方法で、他人に影響力を持つための方法だ。技術的にはなにも成長することがない、成長させることもない方法で、他人に対する影響力を増大させる方法である。

サッカーをするつもりだったのに、いきなり相手チームは「アメフト」のルールを主張して、ハンドパスをしまくるようなものである。

元記事にブクマをしたはてなユーザーの根本にある違和感には、既存の競争ルールを守らず、違うルールを押し通すものに対する「それって、ズルじゃねえか!」という怒りがある。

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20060809/245530/

これも、同種の記事である。交渉テクニックの巧拙ばかりが問われ、登場する西島だか富山だかいう人物たちが、どれほど技術的な真摯さ(既存の競争ルールに対する敬意)を持っているのか、まったく描かれていない。

ここで、思考実験をしてみよう。もし仮に ITPro の筆者が、「上司」や「西島」の人物描写に技術者としての背景を細かく加えていたらどうなったであろうか(*)。プログラマとしてServletのコードを書いたり、アーキテクトとして UML で全体の設計図をこさえたり、オペレーターとして Perlスクリプトを綴ったりしている人物が、なんの因果か、部下を持ち営業と交渉する役回りをおしつけられ、そこで、自らの理想とするところを実現するために「やむを得ず」使った人間関係テクニックという形であれば、これほどの反発は生まれなかったのではないか。

既存の競争ルールが通用しない、限界事例で「別のルール」を使うという話と、最初から「別のルール」で競争しようという話では全然ちがう。実力を出し切ったサッカーのドロー試合に対して、コインフリップで勝敗を決めることには反対はないだろう。

(*)まあ、ブクマコメントにもあったように、この人は「顔が文系」のひとだから、やったとしても説得力は無いだろうけどね(笑)

もしくは、これが ITPro に掲載されたシステム構築の話ではなくて、銀行の法人営業だったり保険のアクチュアリーだったり、ともかくSEとは関係の無い職種でのストーリーだとしたらどうだろうか。自分たちとは関係のない人が、自分たちとはちがうルールのゲームをしている。これも、違和感や怒りの対象にはならず、「ズルい」という感覚もおきにくいだろう。

部下となる人間の「取替え可能性」

このITPro 記事に対する違和感には、もうひとつ別のアングルがある。

もし仮にあなたが、半年かかったプロジェクトの完成を祝う会の席上で、上司に「でもこれ、別の人でもできたんだよな」と言われたらどうだろうか。

不愉快になることは確実である。人は誰でも、これは「俺だから」できたのだ、俺がいなかったらできなかったのだ、と思いたがる習性がある。取替え可能な部品ではない、自分が自分であるという確証が欲しいのである。

ITProの記事に限らず、「人間関係テクニック」を吹聴する記事は、この「取替え可能性」を強烈に意識させてしまう。1)相手をパターンで認識して(反抗的な部下、抽象的なことをいうヤツ、...)、2)そのパターンに基づいた対処方法を、3)自動的に適用する。この一連のメカニズムにおいて、相手がパターンの条件さえ満たしていれば、「その相手」である必要はまったくなくなってしまう。

記事を否定的に読んだ人は、自分を、パターン認識されてしまう「相手」の立場に置いている。そして、自分が取替え可能な部品として他人から見られているという可能性が、(たとえ話だとはいえ)現実感を持って提示されたことに、いらだっているのである。

記事を肯定的に読んだ人は、自分をパターン認識する側に置いている。あらたな道具がひとつ手に入ったぞ、面白そうだから今度使ってみようかな、くらいに考えているのである。

さて、あなたはどちらの立場だろうか。

年齢や立場が高くなるにつれ、パターン認識「する」側に立つことが多くなる。就職活動にくる学生を1000人面接しなくてはいけない、大企業の人事部長を想像して欲しい。そこまでいかなくても、リーダーを選ぶために、技術者10人を面接しなければいけないミドルマネージャーの立場を考えて欲しい。目の前にいる人間を、「その人間」として見るのではなくパターン認識するのでなければ、押しつぶされてしまうだろう。

これは、ITProの筆者が書いている「5分で人を育てる」という言い方にも現れている。パターン認識で効率化されているから、5分で済むのである。原理的には、一人5分だとしたら一時間で12人、一日の半分を部下指導にあてるとしたら4時間で48人の「部下」を指導することができる。マネージャーにとっては?福音だろう。

私は、パターン認識からくる効率の高さを否定できない。そして(ちょっと個人的な信念を言えば)、人は「取替え可能性」からくる不快さに向き合い、もっと耐えるべきだと思っている。自意識過剰は見苦しい。

しょせん、人は人をパターンでしか見ない。

ITPro の元記事は、それにブクマする人間の「自意識過剰度」を測定する良いリトマス試験紙となるという意味で、末永く語り継がれるであろう。そして伝説へ。