トレードオフなんて忘れてしまえ

「人でなしの経済理論」読了。これは、著者の山形浩生氏にとっては論敵(?)である池田信夫氏もブログのエントリでとりあげていた本だ。世の中にあるすべてのことには良い部分と悪い部分がある。子供を救おうとすれば費用がかかって他の老人を救えなくなるかもしれない。エイズ検査が普及すれば結果を見てさらに冒険的な行動に出る人が増加するかもしれない。そのトレードオフを図りながら、政策を決めていきましょうね、というモデストな本なのだが、取り上げる例がどれもこれも人の神経を逆なでするものばかり、というのが本書のウリなのだろう。

さらに面白いのは、池田氏がこの本にかこつけて「山形氏こそトレードオフを理解していない」とばかりにかなり昔のMLでの発言まで取り出して非難しているところ。簡単にいって、
 ・オレはトレードオフが重要なことをわかっている
 ・オマエはトレードオフがわかっておらず、ある一方の側だけを応援している
 ・だからオレの勝ち、オマエはダメだから黙っていろ

という(乱暴なまとめだが)論破フォーマットが機能しそうな予感。

私は、これはちょっとおかしいと思う。というのも、トレードオフ理論のトレードオフを考えると、ある個人が「すべての議論」においてクールにトレードオフを考えることができるとは言えないはずで、つまり
 ・誰にも、一個か二個、人によっては十数個くらいは、「トレードオフなんか考えてられるか!」という強い感情を持つ話題がある

というように考えるほうが現実的なのではないだろうか。

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私がそう考えるようになったのは、最近あった痴漢冤罪事件の判決についての、一連の記事を読んだときであった:
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009041502000057.html

三年間もの間、無実の罪を着せられたあとに最高裁で無罪判決を勝ち取った防衛大学教授の話。あきらかに、証拠もなく被害者の証言だけで逮捕されてしまう痴漢捜査と立件の恐ろしさを考えさせられた。警察や検察は、より証拠重視の捜査をせざるをえなくなるだろう。

しかし、この無罪判決についても「トレード・オフ」があるという記事をどこかで見かけた(AERAだったかな)

警察が証拠主義に傾いていくと、たとえ女性が勇気を振り絞って、声をあげて被疑者をつきだしたとしても、証拠不十分で立件されないケースが多くなってくる。すると、声をあげても無駄だと思い、ますます女性にとっては、痴漢被害というものは「我慢しなくてはならない」ものとなる。

これは、よくないことだ。すでに防衛大学教授の無罪判決を受けて、電車に乗ることに恐怖感を覚えている女性も出てきているらしい(記事の内容は、そんな感じだった)

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この記事を読んで、ひさしぶりに憤るものを感じた。鼻から鼻血がスゥーっと逆流する感じ?

自動車文明の恩恵に服していることの対価として、自分が交通事故の犠牲者になる「可能性」が増えるのは我慢しよう。医療体制の維持のために、確率的におきてしまう医療事故の被害者になる「可能性」も甘受しよう。

しかし、女性が痴漢の被害を訴えやする環境を整えるために、自分が無実の「破廉恥罪」で収監されて自白を強要され、職も家庭も失ってしまう「可能性」だけは、それはもう、絶対に受け入れられない!

どんなコストをかけてもいいから、痴漢の冤罪だけは絶対に防止してほしい。トレードオフとか寝言は寝て言えっての。許されるわけないだろ。

それこそ科学特捜隊だかなんだかしれないが、女性の下着から落ちた繊維のカケラが被疑者のてのひらに見つからない限りは「無罪」を言い渡すべきだろう。冤罪なんか、一個も許されるわけがない!

もしそれができないなら、JRなんかやめてしまえ! 私鉄もやめてしまえ! 女性専用車って何だ! 日本は革命してしまえ!

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心中にうかんだ激しいこ言葉に驚いた。あれ、オレは2−3日前までは「トレードオフ」がわからない人達の頭の固さを、山形の訳書を読みながら一緒にわらっていたのではないか? それが「痴漢冤罪」のときだけは、なぜこのような矛盾した反応になるのだろうか?

きっと経済学者であっても、どんな経済学者であっても、これだけは「トレードオフ」できないという最弱点があるのではないか。というか逆に、すべてを「トレードオフ」で考えるという訓練の果てに、そうすることのできない「何か確実なもの」を否定神学的にみいだす、という「自分さがしのエキスパート」のような役回りが、経済学者にもとめられているのではないか。

トレードオフなんて、忘れてしまえ! そしてオレは明日も満員(のはずの)電車に乗るよ!