トレードオフなんて忘れてしまえ

「人でなしの経済理論」読了。これは、著者の山形浩生氏にとっては論敵(?)である池田信夫氏もブログのエントリでとりあげていた本だ。世の中にあるすべてのことには良い部分と悪い部分がある。子供を救おうとすれば費用がかかって他の老人を救えなくなるかもしれない。エイズ検査が普及すれば結果を見てさらに冒険的な行動に出る人が増加するかもしれない。そのトレードオフを図りながら、政策を決めていきましょうね、というモデストな本なのだが、取り上げる例がどれもこれも人の神経を逆なでするものばかり、というのが本書のウリなのだろう。

さらに面白いのは、池田氏がこの本にかこつけて「山形氏こそトレードオフを理解していない」とばかりにかなり昔のMLでの発言まで取り出して非難しているところ。簡単にいって、
 ・オレはトレードオフが重要なことをわかっている
 ・オマエはトレードオフがわかっておらず、ある一方の側だけを応援している
 ・だからオレの勝ち、オマエはダメだから黙っていろ

という(乱暴なまとめだが)論破フォーマットが機能しそうな予感。

私は、これはちょっとおかしいと思う。というのも、トレードオフ理論のトレードオフを考えると、ある個人が「すべての議論」においてクールにトレードオフを考えることができるとは言えないはずで、つまり
 ・誰にも、一個か二個、人によっては十数個くらいは、「トレードオフなんか考えてられるか!」という強い感情を持つ話題がある

というように考えるほうが現実的なのではないだろうか。

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私がそう考えるようになったのは、最近あった痴漢冤罪事件の判決についての、一連の記事を読んだときであった:
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009041502000057.html

三年間もの間、無実の罪を着せられたあとに最高裁で無罪判決を勝ち取った防衛大学教授の話。あきらかに、証拠もなく被害者の証言だけで逮捕されてしまう痴漢捜査と立件の恐ろしさを考えさせられた。警察や検察は、より証拠重視の捜査をせざるをえなくなるだろう。

しかし、この無罪判決についても「トレード・オフ」があるという記事をどこかで見かけた(AERAだったかな)

警察が証拠主義に傾いていくと、たとえ女性が勇気を振り絞って、声をあげて被疑者をつきだしたとしても、証拠不十分で立件されないケースが多くなってくる。すると、声をあげても無駄だと思い、ますます女性にとっては、痴漢被害というものは「我慢しなくてはならない」ものとなる。

これは、よくないことだ。すでに防衛大学教授の無罪判決を受けて、電車に乗ることに恐怖感を覚えている女性も出てきているらしい(記事の内容は、そんな感じだった)

 −−−

この記事を読んで、ひさしぶりに憤るものを感じた。鼻から鼻血がスゥーっと逆流する感じ?

自動車文明の恩恵に服していることの対価として、自分が交通事故の犠牲者になる「可能性」が増えるのは我慢しよう。医療体制の維持のために、確率的におきてしまう医療事故の被害者になる「可能性」も甘受しよう。

しかし、女性が痴漢の被害を訴えやする環境を整えるために、自分が無実の「破廉恥罪」で収監されて自白を強要され、職も家庭も失ってしまう「可能性」だけは、それはもう、絶対に受け入れられない!

どんなコストをかけてもいいから、痴漢の冤罪だけは絶対に防止してほしい。トレードオフとか寝言は寝て言えっての。許されるわけないだろ。

それこそ科学特捜隊だかなんだかしれないが、女性の下着から落ちた繊維のカケラが被疑者のてのひらに見つからない限りは「無罪」を言い渡すべきだろう。冤罪なんか、一個も許されるわけがない!

もしそれができないなら、JRなんかやめてしまえ! 私鉄もやめてしまえ! 女性専用車って何だ! 日本は革命してしまえ!

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心中にうかんだ激しいこ言葉に驚いた。あれ、オレは2−3日前までは「トレードオフ」がわからない人達の頭の固さを、山形の訳書を読みながら一緒にわらっていたのではないか? それが「痴漢冤罪」のときだけは、なぜこのような矛盾した反応になるのだろうか?

きっと経済学者であっても、どんな経済学者であっても、これだけは「トレードオフ」できないという最弱点があるのではないか。というか逆に、すべてを「トレードオフ」で考えるという訓練の果てに、そうすることのできない「何か確実なもの」を否定神学的にみいだす、という「自分さがしのエキスパート」のような役回りが、経済学者にもとめられているのではないか。

トレードオフなんて、忘れてしまえ! そしてオレは明日も満員(のはずの)電車に乗るよ!

じゃあアウトローや暴走族はアスペルガーなのか?

なんだろうこの違和感。

【1498】曖昧な対人関係を理解できずトラブルを繰り返す部下は病気でしょうか
http://kokoro.squares.net/psyqa1498.html

会社でこんな人がいたら大迷惑であろうことは想像がつく。私が気になったのは、この人に対して「発達障害」とか「アスペルガー」とかいった診断が下されていることだ。

この人が、自分の奇矯なふるまいを正当化するために述べているロジックを以下にまとめてみよう:


−C社は味方だと思ってつきあってきたが、少し前にC社のDさんに「おたくの対応ちょっとおかしくない?」と言われた。これは裏切りだ。今はC社は敵だから怒らせても構わない
−敵になった人はとことん怒らせないと気が済まない。敵と話をしているとイライラして我慢がならない
−だからC社に電話したときは、初めから怒らせてやろうと思っていた

−「味方だと思っていた」人からの、私から見ると些細な発言によって相手を「敵」だと見做し、そうするととにかく相手を怒らせることに意識がいってしまう
−「曖昧な関係」「判断を保留」という言葉の意味がまったくわからない、敵と味方以外にどんな関係があるのか、という返答でした。
−「味方に裏切られたから敵だと思うという僕の感情の動きは間違っているんですか」「僕の感情を否定するのですか」

私たちは、このようなロジックに従って生きている人たちのことを知っている。それは、暴走族やヤクザ、いわゆるアウトローの方々だ。

べつにそういう知り合いがいるわけではない(笑)。しかし上記のロジックを、すこし変換してやれば、これはそのまま「実話ナックルズ」に出てくるインタビューの一部と見なしてもおかしくない。

−「おたくの対応ちょっとおかしくない?」と言われた。これは裏切りだ。→ ナメられたらこの稼業は終わりなんで、そういうのオレ絶対ゆるさないんで
−敵になった人はとことん怒らせないと気が済まない。 →やるときはオレ徹底的にやりますよ
−敵と話をしているとイライラして我慢がならない →スジ通さない奴いるだけでオレもう絶対許せないんですよ
−だからC社に電話したときは、初めから怒らせてやろうと思っていた → やる時にはチマチマ待ってなんかいられないんで、もうこちらから仕掛けますよオレ
−「曖昧な関係」「判断を保留」という言葉の意味がまったくわからない、敵と味方以外にどんな関係があるのか、という返答 → ヌルい生き方している奴って最低だと思うし。おれ、とことん白黒つけますから。ダチだったとしても、裏切ったら絶対許さないっていくかとことんツメますよオレ
−「味方に裏切られたから敵だと思うという僕の感情の動きは間違っているんですか」「僕の感情を否定するのですか」 → スジ通しているのはオレのほうでしょ? なんでスジ通しているのにアヤつけられるのか、全然理解できない

彼の課長への返答は、社会人として不適切な考え方、反応の仕方であることは確かだ。

しかし、私が変換したようなボキャブラリーを彼が身につけたとしたらどうだろうか。そしてそのようなモノイイ(スジを通すことの価値の強調、ナメる/ナメられるという二分法、裏切りへの報復)を、彼が課長との対応で行ったとしたらどうなっただろうか。

すくなくともこの課長は、彼をメンドくさい人だとは思っても、病人のような「弱者」として扱うことはなかっただろう。このメンヘル相談室(なのか?)に相談を持ち込むこともなかっただろう。会社での処遇はともあれ、「まったく理解できない人」というレッテルを貼ることはなかっただろう。

なぜなら、彼と似たような人間類型を、私たちはすでに共通理解として持っているからだ。ヤクザやチンピラのようなアウトローや、暴走族や右翼がそうであるような社会からのはぐれ者であれば、このような振る舞いをするだろうことが想像「可能」だからだ。

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実話ナックルズ」に掲載された、あるアウトローへのインタビュー記事を読んで、印象に残ったことがある。

構成作家(インタビュアー)いわく「こういう人たちは、ある一言が導火線となって爆発することがあるから、話をするときにはとても緊張する」と。

これは、「味方」だと思っていた人間が「敵」と認定されたときの瞬間である。自分がナメられた、尊厳を傷つけられたと思われたときの咄嗟の反応である。

そしてその場合、曖昧にすませておくことはせず、即座に「スジ」を通すことを要求するのも彼らの特徴である。

では林医師は、ナックルズのインタビューを読んで、「非常に硬直した対人関係です」「アスペルガー障害の傾向がみられます」などと診断するだろうか。三鷹スペクターの三代目特攻隊長のまわりの人に対して「明確な言葉でお話しになることで、トラブルを避け、Aさんの能力を引き出すことが出来るはずです」などとアドバイスをするのだろうか。

どうもおかしい。

ここでの問題は、課長の下についた「彼」が、アスペルガー障害を持っていること、そのものではない。彼が「敵/味方」「感情的に自然・不自然」という物語をすりこまれていることなのだと思う。

たとえば、その「彼」が尊敬する人物や著者が「人間関係は曖昧なものだよ」という別の物語を述べたとしたら、次の日から「人間関係は曖昧でなくては*ならない*」と彼が思い込み、仕事上の関係で本来なら強く主張すべきときにまで無理にヘラヘラし続けるようになる、という事態も十分に想像できる。相手のことを「断定しない」ことに関して、頑固なまでに一貫した態度をとるようになるかもしれない。

「コンピューターの様に扱うべし」というアドバイスは、別の意味で正しい。課長さんが長期的にとりくむべきは、彼のメモリにインプットされている不適切な「プログラム」を、より害のすくない「プログラム」で置き換えることなのだ。

どれであってもプログラムはプログラムなんだから(笑)、柔軟性にかけたものであることは確かだ。しかしいくつかのプログラムのなかで、周囲への危害が最小化されるものもあるはずだ。

それこそが、マネージャーに許された「人を育てる楽しみ」ってやつなんじゃないですかね。って何年かかるか知りませんけど(笑)

strongaxe2008-05-12

山形浩生の「クローバーフィールド」映画評。

http://cruel.org/other/rumors2008_1.html#item2008050301

あれ、と思ったのは「クローバー畑」の解釈。子供の頃に見たクローバー畑なんてシーンあったっけ?

(ここからヤヤねたばれ)

クローバーフィールド」というタイトルの意味は、放射能によって汚染された地域、という意味だろう。

なぜなら、この映画が「ゴジラ」に対するオマージュだから。ゴジラと言えば放射能で、映画の最後のほうのシーンで使用されたのも原子爆弾だと見るのが適当。だからニューヨークは廃墟となっただけではなく放射能にも汚染されたはず。そして、放射能の標識はちょうどクローバーの葉のようなかたちをしているから、この汚染された地域のことを「クローバーフィールド」と呼んだのであろう。

ってそれくらい山形浩生であれば、読み取って欲しかった。

「意図せざる結果の法則」翻訳

池田信夫氏に取り上げられた、NYタイムズ記事をざっくり翻訳してみた。ところどころ怪しいが、まあ大意はとれるものと思う。

Unintended Consequences
By STEPHEN J. DUBNER and STEVEN D. LEVITT
Published: January 20, 2008

http://www.nytimes.com/glogin?URI=http://www.nytimes.com/2008/01/20/magazine/20wwln-freak-t.html&OQ=_rQ3D1&OP=53403265Q2Fz4MQ7CztmQ51qJmmQ26Q5BzQ5BAA_zAxzQ5BAzbQ5C0Q5CQ27Q5ErMzQ5BA44Ir@1JMQ5CP@Q26Q2BcQ26bI

「意図せざる結果」

ステファン・ダブナー、スティーブン・レビット
2008年1月20日

今日から1年後、新しい大統領がホワイトハウス入りを果たすだろう。この大統領はいくつもの政策を実現したくてうずうずしているにちがいない -- 弱者救済政策もふくめて。そりゃそうだろう、弱者に援助の手を伸べることこそ、大統領職の特権と責務なのだから。

しかし、政策をかかげて先にすすむ前に、新しい大統領 -- 彼であれ、彼女であれ、-- は、すこし自問自答をしてみたほうがいいだろう:

ロサンゼルスに住む耳の不自由な女性と、靴を作っていた紀元1世紀のユダヤ人と、そしてホオジロシマアカゲラには、どんな共通点があるのだろうか?

数か月前のことだ。ロサンゼルスの一流整形外科医アンドルー・ブルックス氏の職場に、新規患者からの電話が入った。患者は膝に障害をもっており、そのうえ耳が聞こえなかった。彼女は、耳が聞こえないとご迷惑かしら、とブルックス氏に尋ねた。彼は助手を通じて、いや、問題無いですよ、と答えた。膝のモデルとか、解剖図とか、メモを使えば病状を話し合うことができるでしょう。

その後、彼女がもう一度電話をかけてきて「手話通訳」を使ってほしいと申し出た。いいでしょう、とブルックスはうなずき、助手に手配をさせた。驚いたことに、通訳を雇うと1時間で120ドルかかり、最低は2時間から、そして費用は保険によってカバーされないことがわかった! なんで自分でこれをはらわなきゃいけないんだ、とブルックスはいぶかしんだ。単に初見の検査だけで240ドルとられて、そのうち女性の入っている保険だと58ドルしかカバーされない、ということは(税引き前、経費抜きで)180ドルの損になるということだ。

だからブルックスは、患者に通訳無しでやりましょうと申し出た。ところが、ここで初めて彼女はブルックスにこう告げた:アメリカ障害者差別禁止法(ADA: Americans With Disabilities Act)によると、患者はどのような手段を使って通訳をするか決定し、その費用を医者持ちとすることができると定めていると。ブルックスはびっくりした。自分で法律を調べてみると、たしかにその通り、患者の言う通りにしなくてはいけないことがわかった -- 負けるのを承知で訴訟の場に持ち込む以外には。

もし彼女の膝を手術することになっていたら、ブルックスのかぶる費用は1200ドルに上っていただろう。しかもその後、8回は経過診察をしなくてはならず、そのたびに240ドルを手話通訳に払うことになる。治療が終わったときには真っ赤っかもいいところだ。

彼は腹をくくって、自腹で通訳をやとい、彼女を診察した。幸いなことに彼女には物理療法で十分で、手術は不要だった。めでたしめでたし、すべての人にとって明るい結末が訪れた -- もちろん、次回から通訳への支払いをすることになる物理療法士を除けばね。

ブルックスは同僚や友人の医師にこの耳の不自由な患者の話をした。「みんな口をそろえて『もし自分がそんな電話をこういった境遇の人からうけたら、もう絶対に診療しないね』と言っていたよ。」 だからブルックスは、ADAには知られざる暗黒面があるのではないかと思うようになった。「こういう話って、表にでないままに広がっているんじゃないかな。だって医者はもう絞りに絞られているんだから。だから彼女みたいな人は、はっきりしない言い訳でもってタライ回しにされ、そのくせなぜ医者が自分を診ようとしないのか、まったく分からないはめになるんじゃないだろうか。」

つまり、まさに救おうとしている患者当人を、ADAが追いつめることがあるかもしれないとうことか? 利用可能な資料だけでは、これは答えるのが難しい問題だ。しかし、経済学者のダロン・アセモグルとジョシュア・アングリストは、これと似たような質問を問いかけたことがある:ADAによって、障害者の雇用にどのような影響が出たのか?

結論はびっくりするもので、ブルックスの予感を裏付けるものだった。ふたりの調査によると、ADAが制定された1992年には、障害を持つ労働者の雇用ががくっと減ったという。なぜこのようなことが? 雇用主のほうが、もしかしたら一度雇った障害を持つ社員が不適格だった場合に、馘首することが難しくなるだろうと考えて、最初っから雇わないことにしたのだ。

「善いことをしよう」という法律が逆効果となるのは、最近のことだけなのだろうか? 7年ごとの「安息の年(sabbatical)」を定めた古代からのユダヤ法を見てみよう。聖書が定めたとおり、ユダヤ人がイスラエルで所有するすべての土地は、その年だけ休耕となる。ただし、貧しき者だけはその年にすきな穀物を育ててよいことになっている。もっと驚くべきことに、安息の年にはすべての債務が棒引きになるのだ。この一方的な免除がどれだけ魅力的にうつったであろうか、形容することができない。なぜなら、もし借金が払えなかったら、貸し手は借り手をその子息ともども債務奴隷にしてしまうことが当時の常識だったからだ。

支払いが滞りがちな貧しいユダヤ人の靴職人にとって、この安息の年はまさに神の恵みだ。しかし貸し手側の立場にたてば、そうは思わないだろう。なんで、ちょうど7年目で約束を反故にされることがわかっていながら靴職人にカネを貸さなければいけないんだ? 当然のことながら貸し手は、仕組み逆手に取った。貸金が確実に返ってくるだろう、安息の年の翌年に貸し付けを行い、逆に5年目や6年目にはサイフのひもを緩めなかったのだ。資金不足による窮状があまりにひどいため、(ユダヤ人ラビである)大賢人ヒレルに改革がまかされた。

彼は、prosbul と呼ばれうる解決策を出した。これにより貸し手は、先手を打って「この借金は、安息の年における棒引きの対象にならない」と法廷に訴え、そして債権を譲渡することができる。取り立ては以後、裁判所が行う。形式上、法律を変えたことにはならないと同時に、貸し手は、理不尽なリスクを背負うことなく安心して貧しい人々への与信を行うことができる。

ところで、休耕に関する法は何世紀にもわたってそのままにされていた。しかしここにも、抜け道が見つかったのだ。それは heter machira と呼ばれる。ユダヤ人は、一時的にその土地を非ユダヤ人に「売却」して、安息の年も耕作を続けることができる。そして年明けにすぐ「買い戻す」のである。この抜け道のおかげで、いまもイスラエルの農業は活気を保つことができたのだ。

問題は、そのような行為は法の精神に反する悪の道である、と考えて拒否したイスラエルの敬虔なユダヤ人がたくさんいるとういことだ。彼ら伝統主義者は、とても貧しい人たちだ。じつは今年は安息の年なのだが、イスラエル最下層のユダヤ人たちは、非ユダヤ人の持つ土地で育った作物しか口にしたくないので、2倍か3倍の値段を払って輸入食品を食べている -- すべては、イスラエルのもっとも貧しいユダヤ人を救う目的の法を守らんがため、だ。

こういう「いい子ぶりっこ」の法律が、どうぶつたちを苦しめることはない、とお考えだろうか。

1973年にできた「絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律(ESA:Endangered Species Act)」を見てみよう。動物、植物のみならず、その生息環境までを保護する法律だ。経済学者のディーン・リュエックとジェフリー・マイケルは、東部ノース・キャロライナの古い松林に生息する保護対象鳥類「ホオジロシマアカゲラ」に対して、ESAがどういう影響を及ぼしたか測定することにした。1000ヶ所以上の私有の森林地における材木生産を調べることで、リュエックとマイケルは明確な傾向を見出した -- 土地の所有者は、自分の土地にアカゲラが喜んで住みそうな森林ができて保護区域になりそうだと予感すると、すぐにぜんぶ切り倒して材木にしてしまうのだ。材木価格が低かろうが、関係ない。

これはまさに Boiling Spring Lakes で2年前におきたことだ。AP電によると、「こんもりとした素晴らしい松林があったはずの道の端には、もう、ちぎれた茶色の樹皮しか残っていなかった。」 悲しむべきかもしれないが、ESAによって与えられた逆インセンティブを考えてみれば無理もないだろう。二人の論文には、National Association of Home Builders が発行した1996年版のガイドブックが引用されている。「地主によって、ESAの問題に煩わされないための一番良い方法は、その土地をけっして保護鳥類が棲まないような状態に保ち続けることなのです。」

ESAの目立つ欠点のひとつは、ある種を保護対象に指定してから、何か月も何年もしてからその「重要保護区域」が公式に指定されることだ。この猶予期間のあいだに、土地開発者も、環境保護論者たちも、公聴会で意見を述べることができる。じゃあ、何がおきるのだろう?

アカスズメフクロウの窮状を調査した最近のワーキングペーパーで、経済学者のジョン・リスト、マイケル・マルゴリス、そしてダニエル・オズグッドは、アリゾナ州トゥーソンの地主たちは自分の土地が「フクロウのための保護地」と指定されるリスクを犯すくらいなら、先をあらそって開発をしてしまうことを明らかにした。彼らは「ESAがまさに種を救済するのではなく絶滅に追い込んでいるといえる確かな可能性」を論証しようとしている。

てことは、絶滅危機種や、貧しい人や、障害者を救おうなどという法律はすべて失敗するということなのか? もちろんそんなことはない。しかし、四方八方から救いの手 -- 最近なら住宅ローンによる災難からの救済、健康保険コストや税金の軽減 -- を求められる政府、そしてこれらの問題をかならず解決するよと毎日約束している有望な大統領候補者たちを目の前にして、勝利した候補者には「善いこと」をする前に再考する(ひょっとしたら八回、十回考え直してもよいくらいだ)クセをつけてもらうべきだろう。だって、もしもこの世にワシントンという場で作られる法よりもさらに協力なものがあるとしたら、それは「意図せざる結果の法(則)」に他ならないのだから。

(了)

宮台真司と神成淳司のトークショーにいってきたよ

丸善のあんなところにシンポジウム会場があったなんて、知らなかったのでびっくりした。

宮台真司について、とくに語ることは無い。いや、無いというか(笑)、熟達した語り芸を見せていただいただけで、もう満足である。定番のトーク内容を、その場のコンテクストにあわせて縦横無尽に展開する地頭のよさは、やはり生で観賞するとすごいね。オーディエンスには、会社帰りのサラリーマンとおぼしき人も結構いたが、ああオレの会社にもこういうアタマイイやつがもっと大勢いたらシゴトがラクになっていいんだけどネ、てな感想を抱いた御仁もおおかったのではないか。

相方の神成淳司は、第一印象、いかにも先生って感じ。猪首で登壇したときにはもっとシャキンとしたらいいのにと思ったが、とくに身体性とかどうとか、後半でのたまっているのであれば...

トークについては中盤から噛み合っていた。しかし冒頭は、ちょっとグダグダの感もあり、神成淳司の天才キャラ化には無理があるのではないか? という印象を持った。それをひとことでいえば、「現場」と「身体性」という単語の濫用にある。

 「学生を教えてみてわかるのは、彼らは全然現場を知らない」「現場を知らないアーキテクトが、ITシステムを作るからこんなことになる」

 「介護業界のシステムを見る機会があったが、これだと数年をまたず崩壊すると断言できる。現場のヘルパーさんのことを知らないで作っているからだ」

その現場でなにが起きているのかを、現場にいない人にもわかるように、うまく言い当てる言葉をあてがい、公衆に向かって投げ返すことが氏の役回りなのではないか。二人の対談本にでてくる、たとえば小麦の話などには、そういった迫力があった。しかし今回のライブ版には、RFIDの話(しかもちょっと薄め)ぐらいしか見当たらない。

 「カタカタの単語ばかりならべても、それで何がどう実現されるのか、カタカタの単語無しで説明することができない人が多すぎる」

それは現場とか身体性とか、それ自体が観念であるような単語で何かを語った気になってしまう神成淳司にも当てはまってしまうのである。それは、となりの社会学者にまかせればよい話だ。このあたり、天才を騙る(?)のであれば、宮台が抽象的なレベルで投げかけるボールに、2,3個くらいの具体例を即座に返すワザを見せてもらいたいものだ。実務をやっている以上、守秘義務とかあるのかもしれないが。

いやそれ以前に、こういう「現場」とか「身体性」とか言ってオドシをかける手合いが、俺っちどうしても気に入らない(笑)。こういう単語は、知識人や亜インテリに劣等感を持たせる便利な道具として昔からつかわれている。そもそも宮台自身が、フィールドワークをもとにした発言をすることでその地位を築いたのが90年代だ。この忙しいのになぜ同じようなルーチンの再演を、00年代の後半にもなって見なくてはいけないのだろうか。

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というわけで、初手からつっかかって、今回のトークにはあまり好印象を抱かなかった。私のブログとしては、ここで終わってもかまわない。しかしなぜ、私が「現場主義」が嫌いなのかは、いい機会なので、掘り下げて考えてみたい。

まず、IT技術は「現場に合わせる」のではなく「現場を押し流す」ようなものとして通常は観念されていることを挙げたい。よい例が POS システムやバーコードによる商品管理だ。私の記憶が確かであれば、バーコードが登場する前は、イトーヨーカドーや三平ストアの女子従業員がレジ打ちをするのが当たり前だった。その入力の速度と正確さを競う全国大会まであったはずだ。表彰されることを目指して、キーパンチの能力を磨きに磨いた彼女たちの努力は、バーコードの登場で一気に無意味なものになった。そんな勤勉さをまったく持ち合わせないフリーターの彼ら彼女らでも、かつてのレジ打ち以上のスピードで会計処理を済ませることが可能になったからだ。

彼女たちの努力を無駄にしないためにも、「現場に合わせた」システムにすべきだったのか。私はそうは思わない。すでにある仕事のやり方を参考にしすぎたアーキテクチャを提案することは、理系のエンジニアの悪い特性であると、自身は文系SEである Think or Die の作者のかたも書いていた。

http://homepage1.nifty.com/masada/cyber/sap05.htm

今回のテーマが、「社会学とITとの融合」にあったことを思い出されたい。新しいIT技術が社会をどう「永続的に変えるか」という点に照準した議論がなされるだろうと、普通は期待する。アーキテクトが現場の期待にあわせて設計を変えるなどということは、ファインチューニングに過ぎない。この期待はずれが、神成の「現場主義」に対する苛立ちとして現れたのであろう。


もうひとつは、現場主義者のいやらしさを書いた山形浩生のコラムを、偶然にも読んでいたことが大きい。

http://cruel.org/alc/alc200612.html

このコラムでは、途上国の「現場」に立って、非常用無線を各村に配布していたあるNGOメンバーの努力が、携帯電話の普及によってまったく無意味になった例があげられている。

「自分が現場で直接受益者たちと接触しながら活動している」という優越感がうっとうしい、という感覚はよくわかる。しかしこの話のキモは、携帯電話の開発をしたエンジニアたちが、途上国支援のことなどカケラも考えていなった(にもかかわらず、結果としての貢献度は莫大だった)というところにある。

「アーキテクト」という耳障りのする単語には、限界がある。人称化されているため、ある特定の意図を持った人物が想定されてしまい、山形のコラムのような事態をとらえるには不適切だ。ましてや現場をわかっているアーキテクトなどという言い方をすれば、さらに現実から遠のいてしまう。

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浅田彰は、その並はずれた知識と頭脳に拠って断言する。この関係はたやすく誤解され転倒させられ、断言すれば天才と認められるという錯覚が生まれた。」

1990年に浅羽道明が書いた文章である(現代思想はいかに消費されたか -- 「天使の王国」所収)。

今回、宮台が「天才」と呼んだ(ことになっている)神成淳司は、天才だから断言するのか。断言したから天才なのか。

帰り道の途上、大学生とおもわれる二人が「ユビキタス」の定義をめぐって、かなり熱く議論をしている微笑ましい(?)光景に出くわした。断言が論争を惹起する。断言が思考を刺激する。ならば断言天才も教育の役に立つ、といったところか。

まる激トークオンデマンド

面白い内容だった。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=496

宮台真司氏が「正義論」を持ち出して、公正のために相続税を100%にしてしまえ(実質的な相続禁止)という議論があることを紹介しているが、

相続税を廃止してまえというのは、ロールズの議論ではなくて、ノージックの議論なのでは?とはいえ A Theory of Justice が手元にないので確認できない..

もうひとつ、「アメリカでは格差が大きい」ということの理屈付けとして、5パーセントの国民が6割の富を所有しているという統計が引用されている。

これにも反論はあって、評価額はあってもほとんど売ることができない資産(広大な土地、公園、ビルなど)の名目的な所有者としてたまたまアサインされている人がいるというだけで、それが見かけの格差を大きめに見せている、と。100億円の土地があったからといって、そうホイホイと買い手が現れると思いますか?

流動性のある資産だけに限って「貧富の差」を定義したらどうなるだろうか。誰か、すでに論文を書いていたりしないだろうか。

(追記)この回の女性ゲストが書いた「超・格差社会アメリカの真実」をつい買ってしまった。

歴史のハナシ、あとまあヒューマン・インタレスト的な点描はよくできていると思うが、経済学的にはどうなんだろう?

「不動産投資においても最大のコストは金利だから、金利が下がれば不動産価格は上昇する。だから資産価格の上昇で最も恩恵を蒙るウォール街は、低金利をつねに歓迎する。 ... マネーサプライが増えて借入が容易になり、それが投資に向かって資産価値を吊り上げ、そこで売却益が発生すれば、それはGDP(国内総生産)を押し上げる。しかし資産価値の上昇はCPIには直接反映されない。... (しかし)資産価値が上がってGDPが上がり、CPIは大して変わらなければ、インフレなき成長が続いているように見えるし.. (p84)

GDPは(わたしの記憶が正しければ)その年の産出量をはかるものであって、資本価値の増大や、それにともなう売却益(キャピタル・ゲイン)は参入されないはず。だから不動産価格が上昇すればGDPが増大するというロジックはよくわからない。

が、もしかしたら教科書レベルをこえた「超ロジック」では、それはきちんと説明されるのかもしれない。ここらへんはシロートの悲しさ、間違いとは断定できない。ついてはひとつ、トンデモ物件(?)をなんども目にされているはずの名鑑定士様のご判断をあおぎたいのだが、いかがでしょうか。

天皇でてこい! LA Times の慰安婦記事(翻訳)

昨日につづいて、池田信夫ブログねた。

LA Times の慰安婦記事も訳してみた。この問題について謝罪すべきなのは、天皇なんじゃないの? 彼があやまれば八方がまるく収まり、どこからも文句が出ないだろう、というのは、外人とは思えない立派なスジ論ですな。こういう観点はしるかぎり、他のメディアにはなかったような気が。

(元リンク)
http://www.latimes.com/news/opinion/la-ed-japan07mar07,0,616262.story?coll=la-opinion-leftrail

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社説

天皇でてこい!
(Paging the emperor)

日本が戦時中の残虐行為に向き合おうとするなか、君主にできることがあるはずだ。
2007年3月7日

第二次世界大戦中に日本政府が関与して、20万人ものアジア系女性を性奴隷してはたらかせたことを隠し通そうとする安倍普三首相のたくらみは、痛ましいというほかない。それはまったく非建設的だ。汚名を雪ぎたければ、天皇明仁以外に適任者はいない。

安部が政権の座についたとき、中国と韓国との関係を改善しようとしていたはずだが、しかし今はむしろ、日本の右翼によるもっとも忌むべき歴史修正主義にこびることで関係を破壊している。アジア諸国が怒りの声をあげるなか、おわびの表明を撤回するつもりではない、と安部は強調したが、だれも納得はしないだろう。この一件は、地域の和平と安全はおろか、米国の国益をも脅かすものだ。アメリカはいま、北朝鮮核武装問題といった課題に取り組むために、アジア諸国のより緊密な協力が必要としているからだ。

政治家とエセ歴史家がなんども歴史的事実を否定したり捏造したりしているとなりで、日本の極端なナショナリストが、戦時中の残虐行為について「十分に謝罪したはずだ」と繰り返すのは、自滅的というほかない。しかもそのことが、中国・韓国の一部の指導者が戦時中の苦難を自分の政治的目的のために利用するという飽くなき傾向を利することにもなる。事態をさらに悪くしているのは、日本国内で、靖国神社への公式参拝にあえて異をとなえた政治家に対して脅迫がおこなわれていることだ。靖国は、日本の戦死者をとむらう記念館であり、そのなかには戦争犯罪人も含まれている。

日本は、平和を愛する民主制だ。この国が、世界の舞台で確固たる自信を得ることは悪いことではない。すくなくとも、歴史問題における強情さが顔を出さない限り、だが。終戦から62年たったいまでも、中国と韓国との関係で、本当の修繕がなされていない、というのは恐ろしいことだが真実だ。与党自民党が、第二次世界大戦中の残虐行為を過小評価しようとするものを厳しく罰することがなかったため、1995年の(社会党)村山富一首相による謝罪は軽視され、国際的な評判を落とすことになっている。日本が戦時中の行為をきちんと認めようとしないことで、東京がアジアにおける実質的なパートナーとして機能することをさまたげ、ひいては日米同盟の将来に悪影響を及ぼす。

日本国民とその近隣の国民を、過去と和解させるためにもっとも適任なのは、戦時天皇裕仁の息子である明仁だ。政治的混乱からこの問題をすくいあげることができるのは彼だけだ。1992年に北京で彼は、汚れた過去について、はっきりと述べている。「中国の人々に、わが国が耐え難い苦痛を与えた不幸な時期がありました」と彼は述べた。「これは私にとって深い悲しみであります。戦争が終わったときに、わが国民は、このような戦争を二度と繰り返すまいという反省とともに、平和への道を歩むことを決意しました。」

天皇はもう一歩ふみこんで、天皇の御名のもとで行われたすべての犯罪に対する、より強い形での謝罪をすることができるはずだ。このような身振りは、日本の政治家によるいかなる声明よりも、信頼され、深い意味をもつことになるだろう。日本もその隣人も、前に向かってふみだすべきときにきている。

(了)