宮台真司と神成淳司のトークショーにいってきたよ

丸善のあんなところにシンポジウム会場があったなんて、知らなかったのでびっくりした。

宮台真司について、とくに語ることは無い。いや、無いというか(笑)、熟達した語り芸を見せていただいただけで、もう満足である。定番のトーク内容を、その場のコンテクストにあわせて縦横無尽に展開する地頭のよさは、やはり生で観賞するとすごいね。オーディエンスには、会社帰りのサラリーマンとおぼしき人も結構いたが、ああオレの会社にもこういうアタマイイやつがもっと大勢いたらシゴトがラクになっていいんだけどネ、てな感想を抱いた御仁もおおかったのではないか。

相方の神成淳司は、第一印象、いかにも先生って感じ。猪首で登壇したときにはもっとシャキンとしたらいいのにと思ったが、とくに身体性とかどうとか、後半でのたまっているのであれば...

トークについては中盤から噛み合っていた。しかし冒頭は、ちょっとグダグダの感もあり、神成淳司の天才キャラ化には無理があるのではないか? という印象を持った。それをひとことでいえば、「現場」と「身体性」という単語の濫用にある。

 「学生を教えてみてわかるのは、彼らは全然現場を知らない」「現場を知らないアーキテクトが、ITシステムを作るからこんなことになる」

 「介護業界のシステムを見る機会があったが、これだと数年をまたず崩壊すると断言できる。現場のヘルパーさんのことを知らないで作っているからだ」

その現場でなにが起きているのかを、現場にいない人にもわかるように、うまく言い当てる言葉をあてがい、公衆に向かって投げ返すことが氏の役回りなのではないか。二人の対談本にでてくる、たとえば小麦の話などには、そういった迫力があった。しかし今回のライブ版には、RFIDの話(しかもちょっと薄め)ぐらいしか見当たらない。

 「カタカタの単語ばかりならべても、それで何がどう実現されるのか、カタカタの単語無しで説明することができない人が多すぎる」

それは現場とか身体性とか、それ自体が観念であるような単語で何かを語った気になってしまう神成淳司にも当てはまってしまうのである。それは、となりの社会学者にまかせればよい話だ。このあたり、天才を騙る(?)のであれば、宮台が抽象的なレベルで投げかけるボールに、2,3個くらいの具体例を即座に返すワザを見せてもらいたいものだ。実務をやっている以上、守秘義務とかあるのかもしれないが。

いやそれ以前に、こういう「現場」とか「身体性」とか言ってオドシをかける手合いが、俺っちどうしても気に入らない(笑)。こういう単語は、知識人や亜インテリに劣等感を持たせる便利な道具として昔からつかわれている。そもそも宮台自身が、フィールドワークをもとにした発言をすることでその地位を築いたのが90年代だ。この忙しいのになぜ同じようなルーチンの再演を、00年代の後半にもなって見なくてはいけないのだろうか。

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というわけで、初手からつっかかって、今回のトークにはあまり好印象を抱かなかった。私のブログとしては、ここで終わってもかまわない。しかしなぜ、私が「現場主義」が嫌いなのかは、いい機会なので、掘り下げて考えてみたい。

まず、IT技術は「現場に合わせる」のではなく「現場を押し流す」ようなものとして通常は観念されていることを挙げたい。よい例が POS システムやバーコードによる商品管理だ。私の記憶が確かであれば、バーコードが登場する前は、イトーヨーカドーや三平ストアの女子従業員がレジ打ちをするのが当たり前だった。その入力の速度と正確さを競う全国大会まであったはずだ。表彰されることを目指して、キーパンチの能力を磨きに磨いた彼女たちの努力は、バーコードの登場で一気に無意味なものになった。そんな勤勉さをまったく持ち合わせないフリーターの彼ら彼女らでも、かつてのレジ打ち以上のスピードで会計処理を済ませることが可能になったからだ。

彼女たちの努力を無駄にしないためにも、「現場に合わせた」システムにすべきだったのか。私はそうは思わない。すでにある仕事のやり方を参考にしすぎたアーキテクチャを提案することは、理系のエンジニアの悪い特性であると、自身は文系SEである Think or Die の作者のかたも書いていた。

http://homepage1.nifty.com/masada/cyber/sap05.htm

今回のテーマが、「社会学とITとの融合」にあったことを思い出されたい。新しいIT技術が社会をどう「永続的に変えるか」という点に照準した議論がなされるだろうと、普通は期待する。アーキテクトが現場の期待にあわせて設計を変えるなどということは、ファインチューニングに過ぎない。この期待はずれが、神成の「現場主義」に対する苛立ちとして現れたのであろう。


もうひとつは、現場主義者のいやらしさを書いた山形浩生のコラムを、偶然にも読んでいたことが大きい。

http://cruel.org/alc/alc200612.html

このコラムでは、途上国の「現場」に立って、非常用無線を各村に配布していたあるNGOメンバーの努力が、携帯電話の普及によってまったく無意味になった例があげられている。

「自分が現場で直接受益者たちと接触しながら活動している」という優越感がうっとうしい、という感覚はよくわかる。しかしこの話のキモは、携帯電話の開発をしたエンジニアたちが、途上国支援のことなどカケラも考えていなった(にもかかわらず、結果としての貢献度は莫大だった)というところにある。

「アーキテクト」という耳障りのする単語には、限界がある。人称化されているため、ある特定の意図を持った人物が想定されてしまい、山形のコラムのような事態をとらえるには不適切だ。ましてや現場をわかっているアーキテクトなどという言い方をすれば、さらに現実から遠のいてしまう。

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浅田彰は、その並はずれた知識と頭脳に拠って断言する。この関係はたやすく誤解され転倒させられ、断言すれば天才と認められるという錯覚が生まれた。」

1990年に浅羽道明が書いた文章である(現代思想はいかに消費されたか -- 「天使の王国」所収)。

今回、宮台が「天才」と呼んだ(ことになっている)神成淳司は、天才だから断言するのか。断言したから天才なのか。

帰り道の途上、大学生とおもわれる二人が「ユビキタス」の定義をめぐって、かなり熱く議論をしている微笑ましい(?)光景に出くわした。断言が論争を惹起する。断言が思考を刺激する。ならば断言天才も教育の役に立つ、といったところか。