トークセッションなるものを見てきた

波状言論S改』(青土社)刊行記念 「ゼロ年代の批評の地平  ―リベラリズムポピュリズムネオリベラリズム」という座談会を見学しに、クリスマスは新宿の紀伊国屋までいってきた。いってきたついでに、二年ぶりにこの日記を更新しようと思う。

特にメモを取っていなかったので「レポート」を書くことはできないが、楽しかった。切込隊長は壇上でも落ち着かないというか、いつも怪しい動きをしていて、見ていて飽きない。

北田暁大東浩紀が、分析はするけど現実への介入はしない、できないという閉塞感をいろいろ言っているあたりが個人的には面白かった。分析というのはある基準に基づいて行うものだから、その後には基準からみて正しい方向にすべきだ、という提言がくるんじゃないのかという趣旨のことを切込隊長がいっていたが、あまり歯切れのよい答えが返ってこない。

東はともかく北田の場合は、宮台との対談集「限界の思考」で触れていた「コミュニケーション一元論」がカギになるのではないか、と講演を聴きながらぼんやり考えていた。コミュニケーション一元論とは、2ちゃんねるでも韓流ブームでもある社会現象を説明するときに、その説明要因として政治や歴史や経済といったものを持ち出さず、コミュニケーションだけを原理として使用する立場を指す。

もし「分析」が、政治や経済要因を含むものであれば、その分析を踏まえて「次はこのような政策を採るべし」「経済をこのように舵取りすべし」といった「べき論」を導き出し、次のステップにつなげることができるはずである。なんとなれば政治や経済は、操作可能な対象だからだ。しかし「コミュニケーション」については、そのような操作は普通、可能ではないと思念されている。

コミュニケーション一元論の著作としては、宮台真司他「サブカルチャー神話解体」、北田暁大「哂う日本のナショナリズム」がある(読んでいないけど、ルーマン「情熱としての愛」もそういう本らしい)。どれも、ある時代のコミュニケーション作法が、次の世代のコミュニケーション作法を規定していく様を活写した作品である。

両方とも、とてもオリジナリティがあって面白い。しかしそこには、コミュニケーションの自己展開の歴史「だけ」しかない。そしてそのような歴史分析を前にして、「いままでのコミュニケーションはここが悪かった」「ではこれからはこのようなコミュニケーションをすべきだ」などという提案は導き出せないし、よしんば出したところで実効性が無い。

アテンション・ジャンキー気味の東は、人文科学全体の抱えた閉塞感、みたいなことを言っていたが、それは大げさすぎる。コミュニケーション一元論を取る学徒に取って、現実への介入は最初から断念されている。そのことは最初からわかっているのであれば、閉塞感を抱くには値しない。操作可能な説明変数を用いた言説をつむいでいくか、もしくはもっとラジカルに、コミュニケーション自体を操作可能な変数にしてしまうための構想を練ればよいからだ(それがどんなものになるかわからないが)。