"wrestle with" は「取っ組み合いをする」なのか

山形浩生訳の「聖書ガイド」を読んでいて、ひとつ気になったことがあった。

誰も教えてくれない聖書の読み方

誰も教えてくれない聖書の読み方

この本は、聖書に出てくるヘンなところを取り上げて楽しむ本だ。その一例として、創世記から、人間のヤコブが神様とレスリング(?)をする話が出てくる。レスリングに勝った結果、神様はヤコブに「イスラエル」という名前を付けてあげる。本書では、このエピソードのすぐ下に「なんじゃそりゃ?」というマークが付けられている。(p.42)

一瞬、これは山形(と原著者のKen Smith)の勘違いなのではないかと思った。というのも、英語の wrestle with には「一心不乱に祈る」という意味があるからだ。英文学書の誤訳を集めた河野一郎「翻訳上達法」(講談社現代新書)から引用すると、

wrestle with God は旧約聖書創世記に出てくる表現で、「一心不乱に神に祈る」という意味。聖書からの引用は数も多いので、十分に気をつけなければならない。(p.60)

とある。

別に、一心不乱に自分への祈りを捧げてくれる人間を愛しく思った神様がお返しに新たな名前を授けた、というだけの話なら「なんだそりゃ?」とつっこみをいれるほどおかしくはないので、この箇所を引用することは聖書をネタにヘンなエピソードを楽しもうという本書の意図に反する。

しかし、実際に創世記 32:24-30を読むと、確かにヤコブと神様は取っ組み合いをしている(!)。これはどう考えたらよいのだろう。物理的な取っ組み合いと考える Ken/山形が正しいのか、比喩的表現と考える河野が正しいのか。