レッテル貼り

小谷野敦内藤朝雄を批判している。当否はともかく、その中で気になったのが、内藤が「レッテル貼り」をしているという小谷野の批判だ。

十年くらい前のことで記憶があやふやだが、評論家の呉智英のインタビューを思い出した。『バカにつける薬』を上梓したあとに、「話の特集」誌上でおこなわれた、かなり分量のあるロングインタビューだが、単行本にはなっていないはずである。聞き手は編集長の矢崎泰久。そのなかで呉は、あなたのやっていることはレッテル貼りではないか、という矢崎の批判に答えて、大意、以下のように述べている。

「レッテル貼り」はよくない、という言い方自体が、すでに定形になっている。しかし、工場においては、「レッテル」を貼ることで薬品を区別することが必要だ。同様に議論においても、レッテルを貼ることで整理することは役に立つことであり、問題ではない。

むしろ問題は、間違ったレッテルが貼られていることである。たとえば私(呉)は「吉本の一派」などといわれたことがあるが、これは間違ったレッテルである。吉本隆明とは思想の根本において違うことが多い。これなどは「濃硫酸」に「濃硝酸」というレッテルを貼っているようなもので、よろしくない(笑)。

呉らしいレトリカルな議論である。「でもあなただってレッテルを貼り間違えることがあるでしょう」という矢崎のツッコミに対しても、いや、私はない、あるとしても濃硫酸に希硫酸とつけるくらいだよ(笑)、と余裕をかました答をしている。

内藤が「レッテル貼り」をしているからといって、それが問題だとは私は思わない。そのレッテルが正しいか間違っているか、レッテルを貼ることが議論の整理に役立っているかどうかが問題だろう。「愚かな朝鮮人ども」と述べたことを矢崎に論難されている呉のあのインタビューは、あまり読まれていないのだろうか。