アンナ・スヴィダースキー

YouTubeで追悼ビデオを見たときには、なんのことだかわからなかったが、町山智浩の解説を読んでやっと意味がわかった。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060501

この事例で興味深いのは、むしろ経済学的な視点であろう。誰かに同情をする、その死を悼むには、以前であれば、当人のことをよく知り、長期に渡って時間を共有するなどの「コスト」が必要とされた。現在であれば、電子メールは言うに及ばず、SNSYouTube的なサービスによって、このコストは激減した。追悼ビデオが100万ヒットを達成したという事実も、このコスト低減なしにはありえなかったはずだ。

ただし、この「同情コストの低減」は諸刃の剣である。「死んだ」という一報がネットワーク世界を駆け巡り、皆が弔意を示したあとに、実はそれは間違いだったり、悪意のある全くのデマだったりする事例がいままでに何度もあるからだ。

作家のマイケル・クライトンは、実の母親が死んだというデマを流された時の迷惑について書いており、そのためにいまだに、インターネットに対する不信感を払拭できないという。「不慮の交通事故で死んだ」とされたウルティマオンラインの女性プレイヤー(「遺族」によって掲載された写真には、彼女が北欧のミス・コンテストに登場している姿が映っていた)は、ジャーナリストによる調査により「ネカマ野郎の自作自演だろう」と判断された。しかし、いまだにこの嘘(Hoax)を信じて、オンライン世界に設営された彼女の墓に献花をするものが絶えないという。

アンナ・スヴィダースキーの例だと、「地元の新聞が報じた」というところが、事実を事実たらしめている最低限のストッパーになっているのだろう。しかし、手元にはその事実を確かめる術は無い。町山氏に対する(?)信頼を根拠とするしかないだろう。合掌