アスペルガー・ロジック

ふとログを確認したら、なんか Wikipedia からリンクを張られたようでびっくりした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%92%E3%82%AB%E3%83%B3%E6%97%8F_(%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E7%94%A8%E8%AA%9E)

モヒカン族」=アスペルガー症候群という説は、それほど説得力があったのか? もしかしてみんな気づいているけど言っちゃいけないことを言ってしまったって感じ?

「病識」を持て、というモノ言いが反感を呼んだようだが、ちょっと待って欲しい。

よく考えるに、これは「嘘つきのクレタ人」と同じ構造を持っていることに気づかされる。

モヒカンの論理的な帰結

相手がモヒカンであれば、

>情緒的なやりとりよりは情報の交換を重視する。
>社交辞令は抜かして端的に論点を述べることが望ましいと考える。
>正しい情報に対して尊重する態度を持つべきである。

という態度を持っていることが想定される。

であれば、その人に対して「あなたはアスペルガーです」という正しい情報、すくなくとも自分が正しいと思っている情報を与えることには、何も問題がない。「おお、そうだったのか、私に関する正しい情報を与えてくれてありがとう」で終わりである。

つまりそれは、モヒカン的な態度を、自分自身に対してまで適用可能かどうかをテストしていることになる。

もし他人に対してはモヒカン的にふるまい、自分に対してはモヒカン的でない(=そんなことを言うのは失礼だ、といった「内容」よりも「礼儀」に基づいて反応する)のであれば、それは偽モヒカンであり、矛盾している。

「あなたは今、矛盾していることをしましたね」と論って、「ほら、こういうことを言われると不愉快に思うことってあるでしょ、だったら他人に対しても、ちゃんと礼儀をわきまえて、怒らせないような話し方をくふうちましょうね」と教え諭して一丁あがり。モヒカン卒業だ。

もしモヒカンであり続けたいのであれば、「あなたはアスペルガーです」という指摘に対して、「病気の名前で呼ぶなんて私に失礼だ」と言ってもいけないし、「病気で苦しんでいる人に対して失礼だ」と言ってもいけなし、また「そんなこと言っているお前はどうなんだ」と言い返してもいけない。

>発言内容こそが重要であり、発言した人物は重要ではない。
>発言した人物によって受け取り方が変わるような情報であれば、その情報にはそもそも価値がない。

のだから。

可能な答はただ二つ、「私はアスペルガーである」もしくは「私はアスペルガーではない」である。

>正しい情報に対して尊重する態度を持つべきである。
>ミスを指摘すること、ミスを指摘されることは悪意的なことや失礼なことではなく、間違った情報を訂正する大切な行為であると考える。

のが、モヒカンの定義であるからだ。

アスペルガーの論理的な帰結

そしてそれは、モヒカンではない「こちら側」が取りうる、最善の選択である。

「相手の立場に立って」物事を考えることができる点が、「こちら側」の特徴である。さて、上記に書いたことは、まさに相手が「モヒカン」であり「アスペルガー」であるということを、最大限に考慮にいれた発言戦略である。

であれば、「こちら側」がこちら側であり続けるためにも、モヒカンに対しては礼儀や配慮をとりはらって、ただひたすらに「正義と真実」(笑)に基づいた発言をすることが、相手の立場を考えているということにつながるのだ。

ここで、「病気の名前で呼んだら怒り出すかもしれない」とか「病気で苦しんでいる人に失礼かもしれない」とか考えることは、画面のかなた、キーボードのすぐ先にいる「モヒカン」に対して、「モヒカン」であるということを、考慮していないことになる。だって、相手は「モヒカン」なのだから。

>「私はバカな奴をバカと呼んでいるのであり、バカで無い奴を『バカよばわり』したり、バカでないものを『バカにしたり』しているわけではない」

と言い放つひとの*立場に*立って*気持ち*をくんで発言しようとすると、このような戦略を取らざるをえない。

おわかりだろうか。

さいごに

めんどうくさいので、モヒカンとアスペルガーは、合体して「モヒペルガー」と呼ぶことにする。

数年前、あるメーリングリスト上で「モヒペルガー」さんと対決したことがある。その人は、独自の固着した論理をふりかざし、場の空気もよまず、他人の会話の展開にかまわずにそれを押し付けてくるので、ほぼ全員から総攻撃されていた。にもかかわらず、彼は激昂することなく、かといって自分の無礼をわびるでもなく、淡々と自分のロジックを書き連ねていた。

その彼が、数ヶ月にわたる居心地の悪い「バトル」のあいだ、いちどだけ他人の指摘を受け入れたことがある。なにを隠そう、私の指摘だ。詳しくは書けないが、「あなたのAという記述は、Bという論点をサポートすることになるが、あなたが次に書いているCという主張には結びつかない。一歩、飛躍があるのではないですか?」という形式の指摘だと考えていただきたい。

また手前勝手なこといってくるだろうという私の予測を裏切って、彼は「すいません、確かに論理が抜けていましたね。私のミスです」という殊勝なあやまりかたをした。普段の粘着コマッタちゃんぶりからすると、こちらが拍子抜けしてしまったくらい、あっさりと。

私のまわりの人は、「Aではない」「Cではない」とか「Cという考え方は、まじめにやっている○○さんに失礼だ」といった類の「反論」を彼に投げかけていた。実際には反論という形式を借りた新たな「立論」である。そういったものに、このモヒペルガーさんは屈することを一切拒否していた。

ここで私は、あらたなソーシャルスキルを得ることができたのだろう、と述懐する。モヒカンもアスペルガーも知らなかったが、「モヒペルガー」な相手には、「モヒペルガー」の立場に立って議論をするとうまくいくということだ。

「モヒカンの論理的な帰結」で書いたことは、単にアタマでひねり出したことだけではなく、このような私の経験からしぼりだされた知恵もふくまれていると考えて欲しい。こいつはまた病気の名前を出しやがって、と「釣られる」のも結構だが、「病識」を持ってもらうほうが先なのでは、と私が書いた裏側を読み取っていただければ幸いである。

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ちなみに、はてブでタグに mohican とか書いている人は馬鹿ですか? 日本語の「モヒカン」は、英語では "Mohawk" と記述します。

なーんて最後はモヒペルガー・フィニッシュを決めて見ますた!