ラーメン嫌韓流

たいした愛国者でも、いまハヤリの「ネット右翼」でもない私が、お隣の国・韓国について「ハァ〜」っとため息をついてしまう瞬間というものがある。竹島がどうしたとか、そういうことじゃない。ふと立ち寄った、ラーメン屋での話だ。

客として食堂にはいったら、気持ちよく食事をしたいとおもうのは人情だろう。清潔な店内、威勢のよい挨拶、おいしい食事、良心的な値段。このどれかが欠けただけで、気分はぶち壊しである。そして、私がいつも気分をぶち壊しにされるのは、ラーメン屋でよく出会う日本語の不自由な店員たちだ。

「イラサイマセー」(妙なイントネーションがカンに触るなぁ。)「コチラドウゾー」(こちら「へ」どうぞ、だろ!助詞を略すんじゃねー。)「チャースーメンデスネ」(チャーシューメンだよ、ちゃんと発音してくれよ、まったく。)「ギョウザ、イチマイ、ハイリマシター」(なんでこれがいえてチャーシューメンがいえねぇんだよ。)

別にこれが、コンビニの店員がしゃべる片言の日本語だったら、なにも気にならない。コンビニのレジ先であれば、こちらも商品を持ってきて買うだけの関係しか期待していないからだ。しかしラーメン屋は違う。客は、ラーメン屋では何よりもまず「気分」を買っているのである。ああ、うまいラーメンが食いたいな、ちょっと寄っていくか、という食べ頃感がぐぐっと腹の底からせりあがり、いや、こんな時間にひと口でも食べたらぜんぶ内臓脂肪に変わるのは確実だぜ、と止める理性の声が聞こえてきて、まあでも、今日だけはいいか、土日にランニングすれば脂肪もおちるだろうし、ははは、という食欲への甘美なる屈服があって、もう最高に気分が盛り上がったところで

 「コテーリラメン、イチョデスネー」

などとやられると全てが終わる。楽しいはずの食事が、汚い日本語に耐えながら麺を口に運ぶだけの「作業」になってしまう。

じゃあそういう店にいかなければいいだろう、ということではない。問題は、ラーメン屋の店内にはいるまで、日本語に御不自由な店員がいるかどうか判断がつかないということだ。せっかくの遅い夕飯、なるたけならムカつかずにメシを食いたい、そのために必要な「ご安心ください。当店には三国人の店員はいません」という札が、どのラーメン屋にもかかっていない。まるでロシアンルーレットである。

こういう感情が社会的に望ましいものではないことはアタマで理解できていても、「食べ物」にまつわる気分や感情は、そう簡単に理性でくつがえせるものではない。小田嶋隆が「黒人の握る寿司は食いたくない」とエッセイに書いていた。領土問題がどうこうとか、賠償問題がどうしたとか、そんなことはどうでもいい、ちゃんとした日本人の給仕を出してくれ! これが私の「ラーメン嫌韓流」である。


「アリガト、ゴゼマシター」(江戸時代の百姓かよ、まったく)