「リベラリズムとは何か」とは何か

盛山和夫リベラリズムとは何か」を読了。

リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

格差原理の「正しい」解釈や、内省的均衡の意味について詳しい議論を重ねており、とても刺激的な論考。しかも読みやすい。非常にためになったことを断ったうえで、それでもいくつか疑問点を列挙してみる。

1)最後のほうで、ロールズを含めリベラルな規範原理を打ちたてようとする政治哲学者は、「正義の中身や平等化の中身を具体的に提示することができない」(p.319)、何故ならひとたび具体的な中身を提示すると、政治的発言に熱心な集団からクレームが立てられるのがわかっており、そのため「抑制する心理的機制」が働いている、と盛山は述べている。しかしこれは、すくなくともロールズについては成り立たないのではにか。コソヴォ空爆については積極的に賛成をし、そのために正義の戦争を正当化する小論まで著したのではなかったか。

2)お約束のごとくローティが、プラグマティスとして、そしてリベラリズム一般に共通する特徴としての悪しき(笑)「基礎づけ主義」を克服する論者として、終章で取り上げられている。しかし、宮台がよく引用するところの「人権教育から感情教育へ」(理念的な人権を教えても対立する集団の殺し合いは続くだけだから、むしろ彼らに同じ時間と空間を共有させることで「われわれ」の範囲を拡張しお互いに「殺せない」状況に持っていく、そういう経験的な手当てのほうが重要だ)というローティの主張は引用されていない。そのかわりに、ローティは「われわれ」を、他のコミュニタリアンと同様に「自明視」していると難じた上で、ローティともグレイとも異なる「多くの人々や文化にとっての共通の利益」を目指すリベラリズムが必要だと盛山自身が言っているいるのは(p343)、あまりにもローティを過小評価しているのではないか。もしくは宮台が過大評価しすぎているのか。

3)テイラーやサンデルのロールズに対するアタックを、ロールズが「契約論的な構成」を捨て去ったから全部キャンセルできるとでも言わんばかりの断定的な口調は、、、こういう乱暴とも見えるような整理と口調にこそキング・カズ盛山の魅力があるのだろうが、うーん、どこまで信じていいのやら。