双風舎「バックラッシュ!」:鈴木謙介の文章にイライラさせられた件について

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?
この本で一番の収穫は、山口智美の論文だ。「ジェンダーフリー」の由来に(いい意味で)しつこくこだわり、果てはアメリカで引用元とされるフェミニストへの突撃インタビューまで敢行してしまうあたり、学問の鬼、学者の鑑である。まことにあっぱれというほかない。

ただ、個人的により大きな発見があった論文は、鈴木謙介ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」であった。なにが個人的なのかといえば、ジェンダーフリーにまったく関係のないところで「発見」があったからだ。このことについて書いて見たい。まずは、論文中で一番「へたくそ」と思われるところから引用しよう。

 では、「バックラッシュ」の内実が「サヨク嫌い」なのだとして、その要因はどこから生じているのか。バックラッシュといっても多様な主張と論点を含むので、ここでは「ジェンダーにとらわれない多様な生き方を選択しやすくする」ための施策に対して反対する言説に限定して論を進めたい。
 バックラッシュ言説は何に反対しているのか。そのことについて述べる前に、少々遠回りだが、そもそもなぜ「ジェンダーにとらわれない多様な生き方」を選択しやすくする必要があるとみなされているのかについて説明しておきたい。(p.127)

主題を提示し、話題をその方向に切り替える。たったそれだけの作業のために、ここで鈴木は無慮、二段落二百三十字も使用している。なんとまあ、もたついてノンビリとした、著者に文才のカケラすらあるのか疑わしい、サービス精神のない文章だろう、こんなものを読まされて、イライラするなぁ−−と、ここで私は、はたと気づいてしまった。自分が鈴木の書いたものを、無意識のうちに宮台真司の書いたものと比較しながら読んでいることに。

宮台真司といえば、社会学者であり一部にカルト的な人気を誇る評論家である。この「バックラッシュ!」でも、まるで客寄せのように大きなスペースを割り当てられた巻頭インタビューに答えている。
そして宮台が書く文章は「情報密度の高さ」によって特徴付けられる。古今東西(というほど広くもないが)の哲学者の名前が、思想的な事件が、そして社会学的な思索がひとつの段落にこれでもかというように押し込められている。読者は、あえて手垢のついたレトリックを使えば「ジェットコースターに乗っているようなスピード感」を味わうことになる。その一端は前述のインタビューからも確認することができよう。
一方、鈴木謙介は「宮台真司の弟子」という触れ込みでデビューしたという経緯を持つ社会評論家である。2ちゃんねる的な物言いをすれば、金魚のフンだとか、パチモノだとか、後発ジェネリック薬品だとか(これは言われていないか)、まあそういう扱いを受けてきた御仁だ。
ここまで書けば、何を言いたいかバレてしまうだろう。私は、普通の文章として鈴木の書いたものを読んでいたはずが、「宮台が書いたものとしてどうか」という基準から読んでいたのだ。だから、本家本元と比べたときの展開の遅さ、情報密度の低さに必要以上に反応し、わけも分からずイライラすることになったのだ。
思えば、誰かの「弟子」や「二世」として人々にさいしょに紹介されるというのも厳しいものがある。すでに存在する知名度にフリーライドできるという利点がある反面、つねに「師匠」や「初代」と比較され、その比較のなかだけで自分の評価が閉じてしまう危険性があるからだ。だから、この展開の遅さも、鈴木謙介としてのオリジナリティを発揮しようとするための「戦略」なのではないか。
そう思いなすことで、私はいらいらすることなく最後まで論文を読み終えることができた(「思いなす」とはずいぶんと好意的な態度だが、鈴木のデビュー作「暴走するインターネット」を読んで最終章に感動し、思わず落涙してしまったという恥ずかしい過去を持つ私としては、これくらいの好意は好意のうちに入らないのである)。ジェンダーフリーについてはともかく、自分が気に入っている書き手について読み方の再考をうながしてくれたという点で、この本には感謝しなくてはならないだろう。ありがとう。