部下となる人間の「取替え可能性」

このITPro 記事に対する違和感には、もうひとつ別のアングルがある。

もし仮にあなたが、半年かかったプロジェクトの完成を祝う会の席上で、上司に「でもこれ、別の人でもできたんだよな」と言われたらどうだろうか。

不愉快になることは確実である。人は誰でも、これは「俺だから」できたのだ、俺がいなかったらできなかったのだ、と思いたがる習性がある。取替え可能な部品ではない、自分が自分であるという確証が欲しいのである。

ITProの記事に限らず、「人間関係テクニック」を吹聴する記事は、この「取替え可能性」を強烈に意識させてしまう。1)相手をパターンで認識して(反抗的な部下、抽象的なことをいうヤツ、...)、2)そのパターンに基づいた対処方法を、3)自動的に適用する。この一連のメカニズムにおいて、相手がパターンの条件さえ満たしていれば、「その相手」である必要はまったくなくなってしまう。

記事を否定的に読んだ人は、自分を、パターン認識されてしまう「相手」の立場に置いている。そして、自分が取替え可能な部品として他人から見られているという可能性が、(たとえ話だとはいえ)現実感を持って提示されたことに、いらだっているのである。

記事を肯定的に読んだ人は、自分をパターン認識する側に置いている。あらたな道具がひとつ手に入ったぞ、面白そうだから今度使ってみようかな、くらいに考えているのである。

さて、あなたはどちらの立場だろうか。

年齢や立場が高くなるにつれ、パターン認識「する」側に立つことが多くなる。就職活動にくる学生を1000人面接しなくてはいけない、大企業の人事部長を想像して欲しい。そこまでいかなくても、リーダーを選ぶために、技術者10人を面接しなければいけないミドルマネージャーの立場を考えて欲しい。目の前にいる人間を、「その人間」として見るのではなくパターン認識するのでなければ、押しつぶされてしまうだろう。

これは、ITProの筆者が書いている「5分で人を育てる」という言い方にも現れている。パターン認識で効率化されているから、5分で済むのである。原理的には、一人5分だとしたら一時間で12人、一日の半分を部下指導にあてるとしたら4時間で48人の「部下」を指導することができる。マネージャーにとっては?福音だろう。

私は、パターン認識からくる効率の高さを否定できない。そして(ちょっと個人的な信念を言えば)、人は「取替え可能性」からくる不快さに向き合い、もっと耐えるべきだと思っている。自意識過剰は見苦しい。

しょせん、人は人をパターンでしか見ない。

ITPro の元記事は、それにブクマする人間の「自意識過剰度」を測定する良いリトマス試験紙となるという意味で、末永く語り継がれるであろう。そして伝説へ。